「若者の心の叫び」を紹介します。

最終更新: 1月11日

れは上智大学4年生のT.W氏の文章を紹介したものです。純粋な若者の前向きな苦悩と希望に感動しましたので紹介します。(やまがた育英会駒込学生会館HRより掲載)

「奪われた希望を求めて はじめに

 新型コロナウイルスは、どこかゴジラを彷彿とさせるものがある。そう考えるのは、私だけだろうか。  中国の武漢で、原因不明のウイルスが蔓延している。この一報をメディアが伝えて以来、瞬く間にコロナは世界に暗い影を落としていった。各国で感染者が確認されるにつれ、人々は溢れる情報と感染の恐怖にパニックに陥った。同時にコロナの恐怖は、私たちの当たり前の日常を―社会機構、既存の価値観、文化、生活といったあらゆるものを―破壊してしまった。  その姿はまるで、映画に登場するゴジラさながらではないか。2016年にヒットした『シン・ゴジラ』は記憶に新しい。自然災害や原発のメタファーとして描かれたその強大な敵に、人類は為す術を持ちえなかった。コロナに対して、世界は未だ何ら対策を講じることができないでいる。  このパンデミックの中、コロナという怪物の陰で、私たちは多くのものを破壊され、奪われつつあるのではないだろうか。

機会を奪われる私たち

 「まだ気分は高校生です。入学式もない。大学にも通えない。これが大学生って言えますか?実感なんて全く持てません。」  同じ寮に住む新一年生から、このような話を聞いた。  彼だけではない。今年から新たな立場と環境に身を置くはずだった若者たちは皆、永遠に「変わる」という機会を奪われてしまったのではないか、という思いに駆られた。

 人は、立場と環境の変化に応じて、精神的に成長を遂げるのだと思う。高校生が大学生になる。大学生が社会人として自立する。過去の自分では耐えられない仕事と責任を引き受け、乗り越えようとする。自分が置かれる立場と環境がガラリと変化し、味わったことのない空気を感じることで、身の丈に合わない肩書に徐々に精神などの中身が追いついていくのだ。  今年は、卒業式や入学式、入社式など多くの式典が中止された。このような通過儀礼はいささか面倒だが、自身の心に節目を設けるという意味では大きな役割を持つ。ずるずるとした変化で、何が変わったかはっきりと自覚できないままでは、つまり立場や肩書が変わったところで、環境にドラスティックな変化がなくては、生き生きとした実感を私たちは得ることができないのではないだろうか。私たちは、若者として経験しなくてはならない変化や成長の機会を―その際に得るはずだった別れや出会いの感情を―永遠に奪われてしまったのではないだろうか。

 やまがた育英会の学生寮でも、多くの新入寮生を受け入れられていない。埋まらない寮の空室は、私たちが本来得るはずだった―もう永遠に手に入れることのできない―経験や感情を暗示しているような気分にもなってしまう。

居場所はどこにあるのか

 私たちは本来、誰かとコミュニティを共有し助け合う生活に安心する。そこを自分の居場所とするのだ。だが、コロナの恐怖の後に残ったのは、それとは真逆の、殺伐とした、他者とのむき出しの関係性だけではないか、と思うことがある。  この関係が私たちを恐怖に陥れた例は、歴史上、枚挙にいとまがない。ペストが流行した西洋で、疑わしきを罰した魔女狩り。戦争中の日本で、反戦を掲げる者を糾弾した隣組制度。ハンセン病患者をライ者(差別用語)と呼び、社会的に抹殺したこと。私たちは、これらの愚行を歴史の過ちとして非難するが、コロナに見舞われる現在、私たち自身が過去と同様の愚行を犯しているではないか、という思いに囚われてしまう。  感染者を特定し、個人情報やプライベートな部分を不特定多数の他者に公開する。この愚行から得られるのは、安心ではなく、「仮に自分が感染したら」という恐怖ではないか。特に、若い世代は感染しても無症状の場合が多い。いたずらに県外へ出て、ウイルスを拡散させてしまったら、19世紀アメリカで、腸チフスを無症状のままばらまいたメアリー・マーロンと同じ轍を踏むことになってしまう。互いに監視し合い、冷たい視線と言葉が飛び交う中、現代のメアリーになってしまったら、今後、安心して生きられる場所など存在しなくなってしまう。

 一昔前まで、逃げ道として残されていたネット空間ですら、もはや安心はできない。  ネット草創期は、殺伐とした現実から切り離され、顔も素性も分からない者同士がつながる異質な社会に居場所を求める人も少なくなかった。だが、今はどうだ。自粛や感染の恐怖で溜まった怒りやフラストレーションが、ネットの場に溢れている。それは匿名性という武器を手に取り、見る者を無条件に傷つけていく。著名人への中傷や欧米で顕在化した黒人差別が軌を一にしたのも、偶然だとは決して言えまい。  コロナという怪物は、〝安心して生きられる居場所〟という当たり前のものを、私たちから奪い去ったのではないか。  作家の村上龍さんの作品の一つに『希望の国のエクソダス』がある。一歩家を出れば感染と他者の視線に怯え、唯一の逃げ道だったネット社会では冷たい言葉ばかりが垂れ流される。国外に出たところで現状にそう変わりはない。エクソダス(脱出)すべき希望の国など一体どこにあるのだろうか。

見えない将来の展望

 先に〝希望〟と言った。この国と自分自身の未来に、一体どれほどの人が希望を見出すことができるだろう。  自粛を要請される一方で、それに対する国からの補償は薄く対応にも時間がかかる。7月17日現在で、コロナ関連の倒産企業は、全国で353件にも及ぶそうだ。リーマン・ショックやバブル後の苦しい時期を乗り切れなかった企業が多かったことを考えれば、この数字は今後、加速度的に増加していくだろう。また、学生に対する支援も希薄と言ってよい。多くの大学でオンライン授業となり、図書館などの施設を利用できない一方で、授業料が減額されることはなかった。アルバイトもほとんどできない現状では、若い世代の困窮が著しくなるのは明白だ。

 経済的事情に限った話ではない。長時間労働による過労死や鬱病などの精神疾患の増加、脆弱な社会福祉サービスや少子高齢化の問題もコロナ禍では露わになった。こうした負債や課題ばかりが増える現状に、将来への希望や展望など持てるはずもない。就職活動をする同期とは、そんな話ばかりが話題にのぼる。これらを補填しなくてはならないのは、とどのつまり、私たち若い世代なのだから。  〝明日も食えるか分からない〟という不安ばかりが募る未来に、どうして希望や展望など見出すことができるだろうか。

おわりに

 コロナという怪物は、今もなお私たちの日常を破壊し、多くのものを奪い続けている。もはや身ぐるみを剥がされ、むき出しの状態となったと言ってよく、後に残されたのは将来に対する不安だけかもしれない。  思えば、WHO(世界保健機関)のテドロス事務局長は、solidarity(連帯)という言葉をしきりに用い、国際社会だけでなく、身近な人々と協働でこのパンデミックに立ち向かわねばならないと強調した。社会が分断される今、確かに連帯は必要かもしれない。  だが、この連帯を可能にするのは何であろうか。やはりそれは、誰もが何らかの形で将来に対して〝希望〟を持てることではないだろうか。この希望が、世代を超えた他者との連帯を可能にするのだと思う。

 話を冒頭に戻すが、映画『シン・ゴジラ』の中で、ゴジラを退治した後の日本は描かれていない。コロナという怪物を退治した後、日本は、そして国際社会は一体どこへと歩みを進めるだろう。何事もなかったかのように、依然と全く同じ路線を進むことになるのか。それとも、社会機構やイデオロギーの大きな転換を遂げることができるのだろうか。  私たちの社会はスクラップ&ビルドで成り立ってきた。遅かれ早かれ、コロナも必ず収束する。もうこれまでのように大人や社会が「何かをしてくれる」、「守ってくれる」のを期待して待つのでは遅すぎる。新たに社会を担う私たち若い世代が、社会の再建の礎となり、希望を作り出す存在にならねばならないのだと強く思う。 」

(執筆日:2020年7月21日 やまがた育英会駒込学生会館にて)

(写真は寒空に咲く庭花)


ガバナンスの一丁目一番地は社長にある!

下記は岡先生の講演を受講しての感想文です。 1. ガバナンスの一丁目一番地は社長にあるということは全く同感です。戦略性の無い親会社と親子関係になった場合、親会社から出向される経営に無知な社長の登場は子会社社員のモチベーションを如何に簡単に下げるか、見てきました。小さな会社の...